実話です【エッチなし】
シリーズを全部読ませて頂き、本当に心の底から泣いてしまいました(いい歳したおっさんですが…)。お恥ずかしながら私の体験談を書かせて頂きます。
ネタではなく実話です。それと、長文なのでスマソです。
もう10年も前の話になりますが、父が他界しました。
原因は心不全とのことでしたが、元気だった父のことを思うと全く考えにくいことです(スポーツマンだから心臓が強いと言うのはあてになりませんね)。
ちょうど私が大学4年生で、大学院への進学も決まっていた時です。
父は3年前から身体の調子が悪いと言う理由で近所の診療所へ行ったその日に大学病院の集中治療室へ入ることになってしまいました。
原因は未だに私も知らないのですが、重なる疲労で心臓が弱っていたのだと思います。
私と父との関係はあまりいいものではありませんでした。
家庭ではあまり口やかましくない父でしたが、家族サービスがあまり得意でないこともあり、休日は毎日家で寝ていました。今思えばかなり疲れていたんだなあと。
しかし子供の頃はそう言う父がとても嫌で、また同級生の家族が旅行などへ行った話などを聞くたびに「なんでウチは旅行に行かないの?」と母を困らせていました。
私のウチはそれほど裕福な家庭ではありませんでした。
父は8人兄弟の長男で、父の父(私の祖父)は漆塗り職人でしたが、戦後職を失い、家でブラブラしており、家計は子供達の収入で賄っていました。
父は旧制小学校を卒業後、家のために職を転々とし、独学で英語を習って在日米軍の通訳として定職につきました。
しかしその職も戦後の復興とともに暇を持て余すものとなり、母と結婚したばかりで解雇となってしまいました。
家計が辛かったのはそれが直接の原因ではありません。
父が結婚しても一番下の兄弟達はまだ子供で、おまけに次男と三男は家を飛び出し外で借金を作る毎日でした。その支払いと養育費が賄えない祖母はたびたび母のところに来てはお金を貸してくれと嘆願したそうです。
そんな時、私は生まれました。
4つ離れて弟も生まれ、つましいながらも元気に育ちました。
思い出ですが、父は私が高校入試を控えた時期、遅くの時間まで担任の先生と電話で話をしていました。その中で「○○(私の名前です)には希望通りの高校に行かせたいんです」と親ばか丸出しで志望校の絞り込みを懸命になっていました。
勉学のことでは私の大学院受験の際にもエピソードがあります。
参考書が欲しかったのですが、当時買うお金がなく、困っていると父が綺麗に4つ折りされた1万円札を私に差しだし、これで買えと言ってくれました。
当時父のお小遣いは月に1万円でしたので涙が出ました。
病院に呼ばれたのは朝方でした。
病室に駆けつけると父は心臓マッサージを受けており、その光景があまりにも滑稽に思えたことを記憶しています。
父が死ぬ分けない。これはおふざけだ。
そんな感情が私を現実から引き離したのだと思うのですが、「ご臨終です」の一言で私はキレてしまい、「僕がやります!」と病院で怒鳴り散らしてしまいました。
その時、母は暴れる私を押さえつけ、「すみませんでした」と深々と頭を下げていました。
お通夜の後、私は父の祭壇でビールを飲みました。
父が健在の頃、私は1度しか父と飲んだことがありませんでした。
初めて父と飲んだ時。それは成人式の時でした。
住まいが地方なので成人式=同窓会みたいなところがあり、式終了後は会場の前で同級生を探し、飲みに行くと言うのがパターンなのですが、私は中学・高校といじめにあっていましたので、友達がほとんどおらず、成人式もお誘いのないまま帰宅しました。
そんな私の姿を見ていた父は、夕方になると「おい、飲むぞ!」とばかりに少しの焼き鳥と缶ビールを私の前に置き、乾杯と言ってプルトップを開けました。
正直、照れくさかったですが、とても嬉しかったです。不器用さが思いっきり出ており、またお小遣いが少ないのに焼き鳥まで買ってきて。
祭壇の前で私は泣きました。嗚咽ほどではないですが、泣き崩れると言うのはこう言うことなのかと思うほどでした。
その4年後、私は結婚しました。父はいませんが、母と弟は私の結婚をとても喜び、その時に初めて母の目に光る涙を見ました。
しかし結婚生活は5年でピリオドを打ち、父がいないことから相手に都合の良い条件で離婚話は進行しました(そのことは今でも母は悔しがっていますが)。
離婚後、生活はすさみました。そんな私を見て弟が私の家にやって来、立ち直って欲しいと繰り返しました。最後には涙を見せながら。
正直その時の私は自分のことで精一杯でしたので、立ち直るとかそう言うことには全く興味がありませんで、一方的なお節介にしか聞こえませんでした。
弟は自分のネックレスを外し、私に差し出しました。
それは父が在日米軍にいた頃の隊員証(名前と血液型が掘られたプレートです)で、弟が持っていた父の形見です。
立ち直って欲しい。きっと父が見守っているから。そう何度も繰り返しながら泣いていました。
私は声にならない
「グフォ」と言う息が喉から出ると、涙が止まらず溢れてきました。
これが嗚咽なのかと初めて知りましたが…。
その2年後、私は再婚することができました。今はとても幸せに暮らしており、今の奥さんは母をとても大切にしてくれます。
結婚式で最後のスピーチの時。私は用意しておいた原稿をすっかり忘れてしまい(酔っぱらっていたと後で言われましたが)、その時一番心に思っていることを挨拶代わりにしました。
「かあちゃん、ありがと」
母は笑いながら、照れながら、泣いていました。
本当に本当に長文で済みませんでした。
また乱筆乱文を最後までお読み頂けたことにお礼申し上げます。
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ネタではなく実話です。それと、長文なのでスマソです。
もう10年も前の話になりますが、父が他界しました。
原因は心不全とのことでしたが、元気だった父のことを思うと全く考えにくいことです(スポーツマンだから心臓が強いと言うのはあてになりませんね)。
ちょうど私が大学4年生で、大学院への進学も決まっていた時です。
父は3年前から身体の調子が悪いと言う理由で近所の診療所へ行ったその日に大学病院の集中治療室へ入ることになってしまいました。
原因は未だに私も知らないのですが、重なる疲労で心臓が弱っていたのだと思います。
私と父との関係はあまりいいものではありませんでした。
家庭ではあまり口やかましくない父でしたが、家族サービスがあまり得意でないこともあり、休日は毎日家で寝ていました。今思えばかなり疲れていたんだなあと。
しかし子供の頃はそう言う父がとても嫌で、また同級生の家族が旅行などへ行った話などを聞くたびに「なんでウチは旅行に行かないの?」と母を困らせていました。
私のウチはそれほど裕福な家庭ではありませんでした。
父は8人兄弟の長男で、父の父(私の祖父)は漆塗り職人でしたが、戦後職を失い、家でブラブラしており、家計は子供達の収入で賄っていました。
父は旧制小学校を卒業後、家のために職を転々とし、独学で英語を習って在日米軍の通訳として定職につきました。
しかしその職も戦後の復興とともに暇を持て余すものとなり、母と結婚したばかりで解雇となってしまいました。
家計が辛かったのはそれが直接の原因ではありません。
父が結婚しても一番下の兄弟達はまだ子供で、おまけに次男と三男は家を飛び出し外で借金を作る毎日でした。その支払いと養育費が賄えない祖母はたびたび母のところに来てはお金を貸してくれと嘆願したそうです。
そんな時、私は生まれました。
4つ離れて弟も生まれ、つましいながらも元気に育ちました。
思い出ですが、父は私が高校入試を控えた時期、遅くの時間まで担任の先生と電話で話をしていました。その中で「○○(私の名前です)には希望通りの高校に行かせたいんです」と親ばか丸出しで志望校の絞り込みを懸命になっていました。
勉学のことでは私の大学院受験の際にもエピソードがあります。
参考書が欲しかったのですが、当時買うお金がなく、困っていると父が綺麗に4つ折りされた1万円札を私に差しだし、これで買えと言ってくれました。
当時父のお小遣いは月に1万円でしたので涙が出ました。
病院に呼ばれたのは朝方でした。
病室に駆けつけると父は心臓マッサージを受けており、その光景があまりにも滑稽に思えたことを記憶しています。
父が死ぬ分けない。これはおふざけだ。
そんな感情が私を現実から引き離したのだと思うのですが、「ご臨終です」の一言で私はキレてしまい、「僕がやります!」と病院で怒鳴り散らしてしまいました。
その時、母は暴れる私を押さえつけ、「すみませんでした」と深々と頭を下げていました。
お通夜の後、私は父の祭壇でビールを飲みました。
父が健在の頃、私は1度しか父と飲んだことがありませんでした。
初めて父と飲んだ時。それは成人式の時でした。
住まいが地方なので成人式=同窓会みたいなところがあり、式終了後は会場の前で同級生を探し、飲みに行くと言うのがパターンなのですが、私は中学・高校といじめにあっていましたので、友達がほとんどおらず、成人式もお誘いのないまま帰宅しました。
そんな私の姿を見ていた父は、夕方になると「おい、飲むぞ!」とばかりに少しの焼き鳥と缶ビールを私の前に置き、乾杯と言ってプルトップを開けました。
正直、照れくさかったですが、とても嬉しかったです。不器用さが思いっきり出ており、またお小遣いが少ないのに焼き鳥まで買ってきて。
祭壇の前で私は泣きました。嗚咽ほどではないですが、泣き崩れると言うのはこう言うことなのかと思うほどでした。
その4年後、私は結婚しました。父はいませんが、母と弟は私の結婚をとても喜び、その時に初めて母の目に光る涙を見ました。
しかし結婚生活は5年でピリオドを打ち、父がいないことから相手に都合の良い条件で離婚話は進行しました(そのことは今でも母は悔しがっていますが)。
離婚後、生活はすさみました。そんな私を見て弟が私の家にやって来、立ち直って欲しいと繰り返しました。最後には涙を見せながら。
正直その時の私は自分のことで精一杯でしたので、立ち直るとかそう言うことには全く興味がありませんで、一方的なお節介にしか聞こえませんでした。
弟は自分のネックレスを外し、私に差し出しました。
それは父が在日米軍にいた頃の隊員証(名前と血液型が掘られたプレートです)で、弟が持っていた父の形見です。
立ち直って欲しい。きっと父が見守っているから。そう何度も繰り返しながら泣いていました。
私は声にならない
「グフォ」と言う息が喉から出ると、涙が止まらず溢れてきました。
これが嗚咽なのかと初めて知りましたが…。
その2年後、私は再婚することができました。今はとても幸せに暮らしており、今の奥さんは母をとても大切にしてくれます。
結婚式で最後のスピーチの時。私は用意しておいた原稿をすっかり忘れてしまい(酔っぱらっていたと後で言われましたが)、その時一番心に思っていることを挨拶代わりにしました。
「かあちゃん、ありがと」
母は笑いながら、照れながら、泣いていました。
本当に本当に長文で済みませんでした。
また乱筆乱文を最後までお読み頂けたことにお礼申し上げます。
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