寄り道 1
「あっ。お疲れさま。」
仕事場のビルを出て帰宅するため駅へ向かっていたボクは、曲がり角で突然声を掛けられて吃驚した。
それは同じフロアで働く娘だった。席は確か、ボクらの背中を見る位置にある隣のシマだったように思う。
「あれっ、お疲れさま。君も?珍しいねぇ。」
「ええ。ふふっ。ちょうどキリがよかったので。…いつも遅くまで、お仕事なさってますよね?」
そう言った彼女もほぼ毎日残業していた。夜遅くまで女の子を働かせて良いのかなと思いながら、別会社という事もあり、余り深くは考えずにいた。同じフロアで働いてはいても様々な会社の集まりなのである。
「君こそ。いつも遅いようだけど、大丈夫なの?」
「わたしは、もう、慣れちゃいました。うふふっ。」
そういえば以前のトラブル対応時にも彼女はいた。徹夜作業メンバに紅一点だったので、よく憶えている。
噂話には疎いボクだったが、どうやら彼女が婚約したらしいという話しを小耳にはさんでいた。
「あのう。よろしかったら、ちょっと飲んでいきませんか?明日、お休みですよね?」
以前から話しをしてみたいと思っていたボクは 「いいですね。じゃあ、ちょっとだけ」 と応えていた。
後ろめたい気持ちなど一切なかったから、妻には 「会社の人と少し飲んで帰る」 と電話を入れておいた。
彼女に連れられて入った店は、ガード下の小さな居酒屋だった。間口が狭く奥へと細長い。
常連客の陽気な話し声の中、カウンター席の奥へ進み並んで座ると、とりあえず生ビールを注文した。
「へぇ、意外だな。よく来るの?」
「たまに寄るんです。なんか、落ちつくんですよ、ここ。」
「じゃあ、ツマミは御任せしよっかな?」
「お嫌いなものとか、あります?」
「何でも大丈夫。好き嫌いないンだ。」
「よしっ、それじゃあ…う?ん、おすすめを…ナンにしよっかな?」
お品書きを眺める表情を可愛いと感じた。整った顔立ちを、こうして間近で見る機会もないだろう。
小さな輪郭の白い顔。薄めではあるが眉毛の形がいい。くっきりした二重瞼が涼やかで、睫毛が長い。
同年代の娘達より地味な服装ではあるが野暮ったくはない。彼女の装いは、どこか品のよさを感じた。
とりあえずと言いながら彼女が4品ほど頼むと、カウンター越しに老夫婦が愛想よく受け応える。
確かに居心地がいい。最初は手狭に感じていたが、こうして座ってみると程よい大きさに思えてくる。
「いいお店ですね。」
思わず老夫婦に声を掛けると、にこやかな笑顔が返ってきた。隣の彼女も嬉しそうに微笑んでいる。
明るい店内は心地よく賑やかで、ゆっくりと時間が流れる雰囲気にボクは懐かしささえ感じていた。
並べられた品々に舌鼓を打つ。どの料理も絶妙に美味しく酒も進んだ。つくづく居心地のいい店だ。
「お酒は、強いほうなの?」
「うふふっ。そんなに強くはなぃんですよぉ。」
そう言って笑う彼女は、ほんのり頬を赤らめていたが、さほど酔った風には見えない。
彼女の言葉に微かな関西方面のイントネーションを感じて訊いてみると、実家は兵庫なのだという。
「やっぱりぃ、わかっちゃいますぅ?」
「うん。あの子も、でしょ?えっと…」
通路を隔てたフロアの娘と談笑している彼女を幾度か見かけた事があった。
「あっ、そぅです、そぅです、彼女は大阪寄りぃの奈良なんですけどぉ。」
「なんとなく、同期なのかなって思ってたんだけど?」
「同期は同期なんですけど。じつは高校の頃からの知り合いなんです。」
「へぇーっ!」
「でしょ??けっこう長ぁい付き合いなんですよ。彼女とは。」
ほろ酔いの世間話は転々と移り変わり尽きる事がない。彼女の意外な一面を垣間見れた気がした。
くだんの婚約についても聞きたかったけれど、彼女が話す素振りをみせないので敢えて尋かずにいた。
残業が多いため、電車通勤をやめて会社の近くへ引っ越したのだと話していた彼女の携帯電話が鳴った。
「あ、すみません。…はい?もしもし…」
聞き入る彼女の表情が曇った。あまり良い知らせではないらしい。仕事場からの呼び出しかと思ったが、娘は一言も話さずに通話を切った。携帯電話を持つ手が心なしか震えていた。
「大丈夫?どうしたの?」 ついつい訊かずには居れないほどに、彼女の表情が青ざめてみえた。
「…誰だか、知らない人なんですよ。」
「ええっ?」
「先週くらいからなんですけど…わたし、なんだか怖くて。」
「それって…心当たりとか、ないの?」
しばらくじっと考えていた彼女だったが、やはり思い当たるふしはないらしい。
連日のように残業で遅くなって部屋に帰ると、待っていたように着信があるのだという。
最初にかかってきたとき「おかえり」と男の声が聞こえたらしく、それが彼女を怖がらせていた。
「送っていくよ。なんだか、心配だから。」
「えっ、いいんですか?」
ともすると沈みかけていた彼女の表情がパッと明るくなった。ボクは黙って微笑み頷いてみせた。
「じゃあ、焼酎熱燗ひとつ、頼んじゃおぅかな。」
「ははっ、やっぱり強いね?」
「外、寒いですからネ。中から温まっておかないと。うふふっ。」
「それじゃ、ボクも少し付き合おうかな。」
店を出ると冷たい風に迎えられた。お代わりした彼女に付き合ったボクも、大分酔いが回っていた。
さすがに風にさらされた皮膚は冬の寒さに縮みこんだが、熱燗のおかげで躰の芯は温まっていた。
日常化した残業と緊急の呼び出しのために近くへ越してきたのだというように、彼女の住む建物は仕事場のビルが望める位置にあった。これほど近ければ残業して働くには安心だし、便利だろう。
新築らしい外観と機能を備えたマンションだった。比較的安い賃料なのだと彼女は話していたが、洗練された風情のエントランスといい天井の高さといい、それほど安いものとは思えなかった。
ふたりきりでエレベータに乗り込んだ瞬間、ボクは急に自分が場違いな存在であるように思われた。
こんな時間に、ここにいてもよいのだろうか。誰かに見咎められれば弁明の余地などある筈もない。
霞みかけた理性が「早々に引き返せ」という警報を発していたけれど、それは遠くに聞こえていた。
カチャリ。施錠を解く音に続きドアが静かに開けられた。
「どうぞ」 という彼女の声に招き入れられて、ボクは引き返すタイミングをひとつ失った。
間取りは1LDKだろうか。間接照明の中、ボクは彼女のあとをついてリビングに案内された。
羽織っていたコートを脱ぐように言われ彼女に渡すと、それは玄関脇のハンガーに掛けられた。
「温かいお茶にします?」
「うん。でも、ホントお構いなく。」
多少酔ってはいたが、長居をするつもりはなかった。例の電話は、いつ架かってくるのだろうか。
温水式の床暖房なのか乾燥するでもなく居心地のよい室温に保たれていた。眠気に誘われてくる。
「いつもなら、わたしが帰るとすぐに架かってくるんですけど。」
ローテーブルにお茶を運んできた彼女が申し訳なさそうに言った。
「まぁ、もうちょっと様子みて、架かってこないようなら…」 帰るよ、という言葉を濁しながらボクは出されたお茶を一口すすった。彼女も言わんとするところは察したようで、黙って頷いた。
リビングでテーブルを挟んで座っていると、ボクの中に再び「場違いだ」という思いがよぎった。
しらふであれば、きっと居たたまれなくなっていただろうが、酔いがボクを部屋に留まらせていた。
…やけにねむいな…やばいぞ、もう…帰らないと、帰れなくなる…調子にのって飲みすぎたか…。
急に目蓋を開けていることが辛くなってきた。ただ酔って眠くなるのとは、違う気がしていた。
「じゃあ…ボクはそろそろ…」
言いかけて腰がくだけた。ボクを見つめる彼女が満足そうに微笑んでいるような気がした。
<続く>
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仕事場のビルを出て帰宅するため駅へ向かっていたボクは、曲がり角で突然声を掛けられて吃驚した。
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「ええ。ふふっ。ちょうどキリがよかったので。…いつも遅くまで、お仕事なさってますよね?」
そう言った彼女もほぼ毎日残業していた。夜遅くまで女の子を働かせて良いのかなと思いながら、別会社という事もあり、余り深くは考えずにいた。同じフロアで働いてはいても様々な会社の集まりなのである。
「君こそ。いつも遅いようだけど、大丈夫なの?」
「わたしは、もう、慣れちゃいました。うふふっ。」
そういえば以前のトラブル対応時にも彼女はいた。徹夜作業メンバに紅一点だったので、よく憶えている。
噂話には疎いボクだったが、どうやら彼女が婚約したらしいという話しを小耳にはさんでいた。
「あのう。よろしかったら、ちょっと飲んでいきませんか?明日、お休みですよね?」
以前から話しをしてみたいと思っていたボクは 「いいですね。じゃあ、ちょっとだけ」 と応えていた。
後ろめたい気持ちなど一切なかったから、妻には 「会社の人と少し飲んで帰る」 と電話を入れておいた。
彼女に連れられて入った店は、ガード下の小さな居酒屋だった。間口が狭く奥へと細長い。
常連客の陽気な話し声の中、カウンター席の奥へ進み並んで座ると、とりあえず生ビールを注文した。
「へぇ、意外だな。よく来るの?」
「たまに寄るんです。なんか、落ちつくんですよ、ここ。」
「じゃあ、ツマミは御任せしよっかな?」
「お嫌いなものとか、あります?」
「何でも大丈夫。好き嫌いないンだ。」
「よしっ、それじゃあ…う?ん、おすすめを…ナンにしよっかな?」
お品書きを眺める表情を可愛いと感じた。整った顔立ちを、こうして間近で見る機会もないだろう。
小さな輪郭の白い顔。薄めではあるが眉毛の形がいい。くっきりした二重瞼が涼やかで、睫毛が長い。
同年代の娘達より地味な服装ではあるが野暮ったくはない。彼女の装いは、どこか品のよさを感じた。
とりあえずと言いながら彼女が4品ほど頼むと、カウンター越しに老夫婦が愛想よく受け応える。
確かに居心地がいい。最初は手狭に感じていたが、こうして座ってみると程よい大きさに思えてくる。
「いいお店ですね。」
思わず老夫婦に声を掛けると、にこやかな笑顔が返ってきた。隣の彼女も嬉しそうに微笑んでいる。
明るい店内は心地よく賑やかで、ゆっくりと時間が流れる雰囲気にボクは懐かしささえ感じていた。
並べられた品々に舌鼓を打つ。どの料理も絶妙に美味しく酒も進んだ。つくづく居心地のいい店だ。
「お酒は、強いほうなの?」
「うふふっ。そんなに強くはなぃんですよぉ。」
そう言って笑う彼女は、ほんのり頬を赤らめていたが、さほど酔った風には見えない。
彼女の言葉に微かな関西方面のイントネーションを感じて訊いてみると、実家は兵庫なのだという。
「やっぱりぃ、わかっちゃいますぅ?」
「うん。あの子も、でしょ?えっと…」
通路を隔てたフロアの娘と談笑している彼女を幾度か見かけた事があった。
「あっ、そぅです、そぅです、彼女は大阪寄りぃの奈良なんですけどぉ。」
「なんとなく、同期なのかなって思ってたんだけど?」
「同期は同期なんですけど。じつは高校の頃からの知り合いなんです。」
「へぇーっ!」
「でしょ??けっこう長ぁい付き合いなんですよ。彼女とは。」
ほろ酔いの世間話は転々と移り変わり尽きる事がない。彼女の意外な一面を垣間見れた気がした。
くだんの婚約についても聞きたかったけれど、彼女が話す素振りをみせないので敢えて尋かずにいた。
残業が多いため、電車通勤をやめて会社の近くへ引っ越したのだと話していた彼女の携帯電話が鳴った。
「あ、すみません。…はい?もしもし…」
聞き入る彼女の表情が曇った。あまり良い知らせではないらしい。仕事場からの呼び出しかと思ったが、娘は一言も話さずに通話を切った。携帯電話を持つ手が心なしか震えていた。
「大丈夫?どうしたの?」 ついつい訊かずには居れないほどに、彼女の表情が青ざめてみえた。
「…誰だか、知らない人なんですよ。」
「ええっ?」
「先週くらいからなんですけど…わたし、なんだか怖くて。」
「それって…心当たりとか、ないの?」
しばらくじっと考えていた彼女だったが、やはり思い当たるふしはないらしい。
連日のように残業で遅くなって部屋に帰ると、待っていたように着信があるのだという。
最初にかかってきたとき「おかえり」と男の声が聞こえたらしく、それが彼女を怖がらせていた。
「送っていくよ。なんだか、心配だから。」
「えっ、いいんですか?」
ともすると沈みかけていた彼女の表情がパッと明るくなった。ボクは黙って微笑み頷いてみせた。
「じゃあ、焼酎熱燗ひとつ、頼んじゃおぅかな。」
「ははっ、やっぱり強いね?」
「外、寒いですからネ。中から温まっておかないと。うふふっ。」
「それじゃ、ボクも少し付き合おうかな。」
店を出ると冷たい風に迎えられた。お代わりした彼女に付き合ったボクも、大分酔いが回っていた。
さすがに風にさらされた皮膚は冬の寒さに縮みこんだが、熱燗のおかげで躰の芯は温まっていた。
日常化した残業と緊急の呼び出しのために近くへ越してきたのだというように、彼女の住む建物は仕事場のビルが望める位置にあった。これほど近ければ残業して働くには安心だし、便利だろう。
新築らしい外観と機能を備えたマンションだった。比較的安い賃料なのだと彼女は話していたが、洗練された風情のエントランスといい天井の高さといい、それほど安いものとは思えなかった。
ふたりきりでエレベータに乗り込んだ瞬間、ボクは急に自分が場違いな存在であるように思われた。
こんな時間に、ここにいてもよいのだろうか。誰かに見咎められれば弁明の余地などある筈もない。
霞みかけた理性が「早々に引き返せ」という警報を発していたけれど、それは遠くに聞こえていた。
カチャリ。施錠を解く音に続きドアが静かに開けられた。
「どうぞ」 という彼女の声に招き入れられて、ボクは引き返すタイミングをひとつ失った。
間取りは1LDKだろうか。間接照明の中、ボクは彼女のあとをついてリビングに案内された。
羽織っていたコートを脱ぐように言われ彼女に渡すと、それは玄関脇のハンガーに掛けられた。
「温かいお茶にします?」
「うん。でも、ホントお構いなく。」
多少酔ってはいたが、長居をするつもりはなかった。例の電話は、いつ架かってくるのだろうか。
温水式の床暖房なのか乾燥するでもなく居心地のよい室温に保たれていた。眠気に誘われてくる。
「いつもなら、わたしが帰るとすぐに架かってくるんですけど。」
ローテーブルにお茶を運んできた彼女が申し訳なさそうに言った。
「まぁ、もうちょっと様子みて、架かってこないようなら…」 帰るよ、という言葉を濁しながらボクは出されたお茶を一口すすった。彼女も言わんとするところは察したようで、黙って頷いた。
リビングでテーブルを挟んで座っていると、ボクの中に再び「場違いだ」という思いがよぎった。
しらふであれば、きっと居たたまれなくなっていただろうが、酔いがボクを部屋に留まらせていた。
…やけにねむいな…やばいぞ、もう…帰らないと、帰れなくなる…調子にのって飲みすぎたか…。
急に目蓋を開けていることが辛くなってきた。ただ酔って眠くなるのとは、違う気がしていた。
「じゃあ…ボクはそろそろ…」
言いかけて腰がくだけた。ボクを見つめる彼女が満足そうに微笑んでいるような気がした。
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